人類はおそらく出現当初からハチミツを利用していただろうと想像できます。甘い食べ物といえば果物か木の実しかなった時代に、糖度が80度もあるハチミツはこの上なく甘くておいしいご馳走だったに違いありません。また、ハチミツは水で薄めて暖かい場所に置いておくと自然に発酵して「ハチミツ酒」になります。人類最初の酒といわれる「ハチミツ酒」は、彼らの儀式や祝宴に欠かせない貴重品だったに違いありません。それでは、このように人間が太古から利用してきたハチミツの歴史を振り返ってみましょう。

ヨーロッパの各地で、太古のハチミツ採りをしのばせる岩壁画が発見されています。写真は、東スペインのレヴァント地方の岩壁画で、1万年以上も前に描かれたものです。岩穴につくられた蜂の巣から、片手に容器を持った女性が蜜を採っている様子が描かれていて、周りにはたくさんのミツバチが飛んでいます。
岩壁画は原始人の強い願望を表現したものと言われており、こうしたハチミツ採りの絵は、なんとかしてハチミツを得たいという彼らの願いと祈りから生まれたものと思われます。

古代エジプト時代になると、早くも養蜂が始まります。写真は、古代エジプトの養蜂を描いた墳墓の壁画です。粘土で作った灰色の巣箱からハチミツのたまった巣を取り出し、蜜を壺に貯蔵している様子が生き生きと描かれています。このほかにも、ハチミツ入り菓子パン作りの絵や、貢物としてハチミツ入りの壺を運んでいる絵もあり、当時の貴族の生活にハチミツがいかに重要だったかを窺い知ることができます。

ギリシャ・ローマ時代になると養蜂は企業化され、多数の奴隷を使用する大規模養蜂場が登場します。市民の間でもハチミツを利用する人が増え、肉料理や飲み物、デザートなどに利用されるようになります。

さて、我が国のミツバチ事情はどうなのでしょう。日本で文献上にミツバチが登場するのは、飛鳥時代に編纂された「日本書紀」が最初です。同書には「皇極天皇ニ年(西暦643年)」、百済の太子余富、蜜蜂の房4枚をもって三輪山に放ち養う。しかれどもついにうまわらず」といった、養蜂を試みたが失敗に終わったという記述があります。
平安時代に編纂された「延喜式」には、日本各地から宮中に献上された特産物が記録されていますが、ハチミツについては、「蜜、甲斐国一升、相模国一升、信濃国二升、能登国一升五合」の記述があります。一国の献上が1〜2升しかないのを見ても、当時は生産量が少なく、いかに貴重品であったかが分かります。
江戸時代になると、ハチミツ生産の研究が進み、「家蜂畜養記」「日本山海名産図会」「広益国産考」などの養蜂技術を解説した本も出版されるようになり、生産量も増え、薬としてですが一般の人の口にも入るようになりました。
 

人類は自然巣から蜜を採る方法を経て、粘土製の巣箱や桶、くりぬいた丸太の巣でミツバチを飼うようになりましたが、採蜜の方法はヨーロッパでも日本でも、巣を押しつぶして蜜を採るという原始時代と変わらない方法を続けてきました。こうした方法に革命をもたらしたのは、米国人ラングストロスが19世紀中ごろに発明した「可動式巣枠」でした。この発明は、簡単に取り出せる木枠を巣箱に入れ、この巣枠に巣作りをさせるという画期的なものでした。この発明に伴って巣枠に貯まった蜜を振り出す「遠心分離機」や、巣づくりを効率化させる「巣礎」などが相次いで考案され、現在も行われている近代養蜂の幕開けとなったのです。